弁才船とは
弁才船とは~種類や呼び方
安土桃山から明治にかけて、国内海運に広く使われた大型木造帆船。弁財船とも書く。
弁才船は始め瀬戸内海を中心に発達したが、その後全国に広がった。船の形式としては、下の二つに分けられる。
種類 | 説明 |
---|---|
上方型弁才船 | 基本形。 瀬戸内海航路を中心に活躍。主力は200~300石の小型廻船。 |
北前型弁才船 | 側面;反りが深く吃水が浅い。平面;頭が大きいどんぐり型。 日本海を航行するため、船梁などが荒海様に強化されている。 |
型式とは別に、使われ方などで弁才船は以下のように呼ばれる事もある。
呼び名 | 説明 |
---|---|
千石船 | 単に巨大な船という意味。実際には二千石を超える船もあった。 もともと船の形式とは無関係だが、その多くは弁才船だったため大きな弁才船の俗称として使われた。 |
菱垣廻船 | 江戸時代、大阪~江戸間の生活物資の輸送を請け負った廻船問屋仲間が使った船。 船の側面部に目印として菱垣模様を付けていたためこう呼ばれる。船の型式としては弁才船。 |
樽廻船 | 酒輸送を中心に菱垣垣廻船問屋から分離した廻船問屋仲間が使った船。 船の型式としては弁才船だが、樽ものを積みやすくするために少し船倉が深い。 |
北前船 | 江戸中期から明治にかけて、大阪と北海道を日本海回りで、商品を売り買いしながら航海していた商船。 船の形式としては北前型弁才船が一般的。 |
弁才船の時代背景
もちろん一番の時代背景は「鎖国」です。
海外渡航が禁じられ、江戸初期は沿岸航海(陸地が見える範囲で航海する)だけになりました。その後、沖乗りや夜間航海も増えましたが、せいぜい言って近海航路でした。
湊は未発達です。
当時の港の多くは天然の入り江や河口で、荷物を積み降ろしははしけを使って行いました。
その後、次第に主要寄港地では波止などが整備されますが、今のように岸壁に船をつけて直接荷物を積み降ろしする事はありませんでした。
弁才船の荷物輸送には大きく二つの方法がありました。一つは運賃を収入とする運賃積(菱垣廻船・樽廻船)、もう一つは荷物を船が買い取りそれを売却してその差額を収入とする買積(かいづみ)です(北前船)。単純に言えば前者が運送業、後者が輸送船を持った商社業です。もっとも完全に分かれている訳では無く、北前船でも藩の年貢米を運ぶのは運賃積ですが、その船の荷物の何割かは船頭の取り分として買積の荷を乗せていました。
買積はA港で仕入れた品をB港で、B港で仕入れた品をC港で売るという方法ですので、船頭には商品・取引場所・取引価格などを判断する商才が求められました。また、港でそういう商品の売買をしていた商人を廻船問屋と言います。港に入った船頭や知工(事務長)は廻船問屋に宿泊し商品の売買をしていました。
弁才船の構造的特徴
下に、弁才船の構造的特徴とその長所/短所をまとめてみました。
このまとめを見ると「経済性重視、安全性無視」のように見えます。
しかし元々、港伝いに進む近海航路のために作られた船なのです。嵐が来たら出港しない、近くの港に逃げ込む、が前提であり、その前提下では安全で経済性に非常に優れた船でした。
明治になると、政府が躍起になって西洋船化を進めます。それでも近海航路用の帆船としての弁才船の優位は動かず、ずっと作り続けられました(但し、舵を固定化したり帆柱数を増やした「あいのこ船」と呼ばれるものもありました)。
弁才船が衰退するのは動力船化に対応できなかった為です。
構造的特徴 | 長所 | 短所 |
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大きな一枚帆 | 少人数で操船できる | 強風に弱い |
厚板+梁の船体構造 | 製造価格が安い 隔壁が無く荷物が積みやすい 底板が厚く浅瀬に強い→荷物の積降ろしが容易 |
ー |
引上式の大きな舵と外艫 | 岸近くまで船を寄せ荷物の積降ろしが容易 | 荒れた海で壊れやすい |
脱着式の荷室甲板 | 荷物の積み降ろしが容易 | 波をかぶると浸水する |
全体 | ー | 逆風帆走性能がやや低い |
西洋船と弁才船の詳しい構造比較はこちらを見てください