開高 健 (かいこう たけし)
解説
開高健は色々な顔を持った人でした。
その一つは言うまでも無く、優れた小説家であると言う事です。また「ベトナム戦記」に代表される、ルポルタージュ作家としても素晴らしい作品を残しています。その他にもルアーの釣り師・美食家として多くのエッ
セイも書いていますし、壽屋時代はコピーライターとしても活躍していました(「トリスを飲んで、人間らしくやりたいな、人間なんだからな」)。
文章に興味の無い人には、昔テレビのサントリーの宣伝に出ていた太った人(右はニューヨーク編「自由の女神の足元でブルーフィッシュが釣れるのだ」)と言ったほうが通りがいいかもしれません。
小説家としての開高健は早熟な人だったように思います。『パニック』『日本三文オペラ』『ロビンソンの末裔』 これらの作品は30歳までに書かれています。それ以後はさほど多くの作品を発表しておらず、私が傾倒するのも、これらの初期の小説群です。
これはあくまで私見です。開高健の初期の小説群には、日本人離れしたエネルギーを感じます。それが『日本三文オペラ』ではアパッチ族の奔放な生命力として、『ロビンソンの末裔』では開拓民の八方塞りの状況下でのしぶとい生命力として現れます。
おそらく若き日の開高健は「自分が何かを成さねばならない」という強い思いを持ち、しかし「何をなすべきか」「どう達成するか」に悩み抜いたのではないかと思います。その強烈な思いが、これらの作品群の中にエネルギーとして注ぎ込まれている。そんな気がします。
またこの人の作品の特徴は、10年経っても脳裏に焼き付けられているシーンが数多く存在する事に有ります。何故でしょう。おそらくそれが筆力と言うべきものなんでしょうが。
しかし、『ロビンソンの末裔』以後、小説の数はぐっと減り、釣りや美食に関するエッセイやルポルタージュ中心の活動になります。時折出される小説も、内向的な作品が多く、若い頃の力強さは影をひそめます。それはそれなりに優れた作品なのでしょうが、私にとっての小説家・開高健は『ロビンソンの末裔』までです。
エッセイスト・開高健も魅力的です。私は釣りもしませんし、美食家でもありません。それでも開高健の文章に引かれ、数多くの作品を読みました。2文字漢字の形容詞の羅列と言った独特の説得力ある文体で、読む者を開高健の世界に引きずり込んでいきます。関西人の面目躍如と言うところでしょうか。
略歴
年 | 記 述 |
---|---|
1930 | 大阪市に生まれる。 |
1943 | 父親 死去。中学入学するも翌年には授業は停止され、勤労動員。 戦後もアルバイトをしながら通学。 |
1951 | 『あかでみあ めらんこりあ』を刊行。 |
1953 | 詩人・牧洋子と結婚。大阪市立大学法文学部法学科を卒業 |
1953 | 壽屋(現サントリー)に入社。宣伝課に配属され、柳原良平氏とコンビを組む。 |
1957 | 『パニック』『巨人と玩具』『裸の王様』を発表。一躍脚光を浴びる。 |
1958 | 芥川賞受賞。壽屋を辞職、嘱託に。 |
1959 | 『日本三文オペラ』 翌年『ロビンソンの末裔』 |
1965 | ベトナム戦争の取材中、開放戦線に包囲される。九死に一生を得て脱出。『ベトナム戦記』 |
1968 | 『輝ける闇』で、第22回毎日出版文化賞を受賞。 |
1972 | 『夏の闇』で、文部大臣賞を打診されるが辞退。 |
1975 | 『白いページ Ⅰ』『白いページ Ⅱ』翌年『 完本 私の釣魚大全』 |
1987 | 前年発表の『耳の物語』で日本文学大賞受賞 |
1989 | 食道癌に肺炎を併発し死去。享年58歳。 |
▽▽読了作品(2002以降の読了本は書評付き)▽▽