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弁才船 河市丸

2019/09

きっかけ

玄関にある船名札と滑車

河市丸は我が家が昔持っていた日本式帆船です

退職して1年たった2018年5月。懸案だった家の外回りの改装も一段落し「さて次は何をしようか」と考えました。出来れば2-3年かけてじっくりやれる事が良いなと考えて思いついたのが河市丸の模型作りです。

我が家の玄関には「河市丸」の船名札とその船で使っていたと思われる大きな木製滑車が飾ってあります。また「我が家は江戸時代から廻船業をやっていた」という郷土史家の方の調査結果を父親から聞いた事があります。しかし、その河市丸がどんな船だったのか知る人も今は居ません。

まずは調査です。始めはゆっくり2-3年かけてと考えていたのですが、始めてみると面白くて一気に調べ上げる事になりました。

明治・大正期の河市丸

船鑑札

まずは家の中を調査。
「何かあったよな」と神棚に上がっていた真っ黒な木箱を綺麗に拭き取ってみたら、これが船鑑札でした。解読すると、どうも明治20年に194石の河市丸に対して大阪で発行されたものの様です。

神棚にあった明治20年発行の船鑑札

船箪笥

もう一つ、屋根裏に船箪笥が置いてあったのを思い出しました。
船箪笥は船頭の手提げ金庫です。引っ張り出してみると、中には沢山の書類があり、その中で圧倒的に多いのは大阪と廿日市(+串戸)の材木商関係の書類です。日付はほとんどが大正5-6年でした(日付が無いものも多い)。これが河市丸の最晩年と思われます。
江戸時代から廿日市は広島藩の木材集積地として栄え、今も西日本有数の木材専門港を持つ木材の街です。この事から河市丸は廿日市・大阪間の木材輸送に携わっていたと考えられます

まとめ

明治20年(1887年)に新造の河市丸に船鑑札が発行され、その最後が大正6年(1917年)となるとその間30年です。木造船の寿命は普通20年と言われており、ずいぶん長く運行していたことになります(30年運行された船も記録に残っています)。
この当時、山陽鉄道(現山陽本線)が明治27年(1894)に広島まで、明治30年(1987)には徳山まで開通し、物資の輸送は海運から陸運に移行して行きました。そうした世の中の動きの中で「もはや船の新造は無い。今の船を可能な限り延命し、それを限りに廻船業は止める」という考えだったのだと思います。

文化/文政期(1804-1830年,江戸時代)の河市丸

町史の調査

明治は判ったので、さらに江戸時代に遡るべく、まずは市の図書館へ。
幸いな事に市制移行前に書かれた本編2巻、資料編5巻からなる立派な町史があります。何日もかけてこれを片っ端から捲ります。
ありました!!

文化10年(1819)、文政2年(1819)、文政8年(1826)の3回にわたって「佐伯郡地御前浦船御改め帳」という文献が掲載されています。それぞれの年度で10反帆、12反帆、13反帆の船があり、その持ち主は利七となっています。そして我が家の過去帳で同時代に利七が居ることが確認できたのです。

流石に船名までは掛かれていませんが、とりあえず我が家の持ち船は時代を問わず「河市丸」と呼ぶことにします。
また、この頃に読み始めた和船の専門書によれば、江戸時代のこのクラスの船はほぼ全て弁才船と見て良いようです。
弁才船についてはこちらを見てください。

利七の持ち船;文化10年(1819)=10反帆、文政2年(1819)=12反帆、文政8年(1826)=13反帆
利七の下の文字は「参らせそうろう」
詳しく見ると過去帳では利七は文政4年に逝去しているのにもかかわらず、文政8年の船改めに利七の名前が出てきます。
これについては、生前利七が購入した船の名義が死後に描き替えていないためだと考えています。
船絵馬~19反帆の弁才船

この「船御改め」は最初は国勢調査のようなものと思っていたのですが、実は船床銀という船に掛ける税金のための厳格な調査でした。船型・年数・帆端数等を調査・記帳するとともに船には完了を示す焼印を捺し、帳外れの船・焼印のない船は没収し、船の売買に対しては、船奉行へ届け出なければならないことになっていました。つまり、この浦調べの結果は非常に信頼性が高いという事です。

ここで「反帆」と言うのは船の大きさを示します。この時代の帆は木綿布を縦に縫い合わせて作られています。右の絵の帆の縦線が縫い目で、10反帆とは10枚の布を縫い合わせた帆という意味です。使われる布幅は規格化されていたので、これで船の大きさを知ることができました。ちなみに広島藩が掛けた海船の船床銀は帆1反につき銀一匁 (諸説ありますが今のお金にして1250円程度)でした。

模型を作るとすればもっとも大きい13反帆の船です。では13反帆の船はどのくらいの大きさなのか?
文政2年(1819年)の「船御改め」には「12反帆1艘、3反帆6艘、2反帆45艘」と言う記述とは別に「250石1艘、20石6艘、10石45艘」とも書かれています。この事から12反帆は250石であると判ります。ですから13反帆は280石と考えました。

では280石の船とは、全長はおよそ20mになります。乗組員は(弁才船は少人数で操船できる船なので)4~5人。瀬戸内海を運行する船は200-300石が主力だったようなので、その中ではやや大きめ。もっともこの時代、北前航路には1000石~1500石の大型船が有ったので、それらに比較すれば小さな船ですけど。

反帆と石の関係
実は多くの文献で、この時代(19世紀前半)の12反帆は150石になっており、町史の250石と一致しません。この差については以下の様に推測しています。
船床銀の徴収が始まった1624年には一反幅は3尺(90㎝)でした(グラフのオレンジの線)。しかし強度・耐久向上のため18世紀中頃から2.5尺(75㎝)が主流になります(グラフの青い線)。つまり文政2年の12反帆は150石のはずなのです。
しかし反の幅が変わる際には混在期間があり、その時は同じ大きさの船なのに船床銀の額に差が生じたり、帆を新調しただけで船床銀が上がってしまうと言った混乱が生じたはずです。それを避けるため藩の「船御改め」では3尺巾に換算して記載するという処置がとられたのではないかと想像しています。しかし三尺基準だった事を示す公式文書は見つかりませんでしたが、『東野村と船』 (現竹原市・馬場浩著)や『瀬戸内海地域史研究』(瀬戸内海地域史研究会編集)に、実際の反帆数(沖反帆)より登録上の反帆数(公称反帆)は小さかったという記述がありました。
もう一つ疑問があります
1)なぜ12年間で船が2度も大きくなっているのか?
木造和船の寿命20年程なので頻繁すぎます。 考えられる一つの理由は難破・破船です。弁才船は舵周りに強度的に欠陥があり海難事故も 多かったようです。さらに町史には文政4年大風があり扇新開(広島総合病院沖の埋め立て地) が被害を受けたという記録もあります。当時の地御前湊は「埠頭;右当村には無御座候。 湊;当浦は干潟永く 船繋之場悪敷に付 村内風波之節は外浦江船相廻し 勿論他国船往来 交易之義無御座候」と書かれているくらいなので、停泊時に被害を受けた可能性もあります。
もう一つは中古船です。木造和船の寿命は20年ですが12年目あたりで上部構造の作り替えを 含む大規模補修(新造費用の1/2)が必要だそうです。大阪-江戸のような外海航路の船では大 規模補修するよりも、新造し古い船を内海(近距離)航路に売り出す中古船販売が盛んにおこな われていたようです。河市丸は広島-大阪間の内海航路中心だったでしょうから、中古船を安く買って運用していたのかもしれません。

その後の河市丸(江戸時代後期)

安政4年(1957年)~島根県浜田市外ノ浦町の客船帳

島根県浜田市外ノ浦町の廻船問屋・清水家の客船帳

実は途中からは町史だけでなく、より広範囲な文献調査をする為に県立図書館に行っていました。その中で偶然面白い情報に行き当たりました。
島根県浜田市外ノ浦町の廻船問屋・清水家に所蔵の客船に我が家の船が載っているのです。
船頭の松蔵も我が家の過去帳に載っています。おそらく文化文政期の利七の息子で文久2年(1862年)没ですから、年代的にも一致します。と言う訳で、安政4年(1957年)には神力丸という船を持っていたことが判りました。ただ、残念なことに客船帳には神力丸が大きさは書かれていません。また、最終目的地も不明です。島根県の浜田と言えば西廻り航路の寄港地として有名です。まさか西廻り航路を遡り、蝦夷方面まで行ったとは思えないのですが。

湊には荷主と船主の間で積み荷の取り扱いをする廻船問屋が居ました。江戸時代は、その港で一度どこかの廻船問屋と取引すると、以後は他の問屋に移る事は許されていませんでした。客船帳は廻船問屋が船や船頭を管理するための顧客リストです。
客船帳は各地に残っており、探せば他にも記録があるかもしれません。しかし客船帳の多くは現地に保管されており、清水家の客船帳の様に活字化されているのも少なく、筆書きのため素人では解読できないのです。

明治維新直前の元治1年(1864年)ころ

 

「地御前ものがたり」p62には「(地御前の港は)江戸時代末期から明治初期にかけては、廿日市港を上回る発展を見せた」と書かれており、廿日市町史 通史編下 p300には明治27年の船改めで地御前港には150石以上4隻、100-150石11隻、50-100石6隻の日本型商船があったと記されています。
一方、廿日市天満宮に元治1年(1864年)に奉納された狛犬の台座に、我が家の過去帳に載っている彦蔵の他に同姓ですが過去帳には無い浅エ衛門の名前が彫られた狛犬が寄進されています。
めったにない姓ですから、浅エ衛門は我が家の分家で別の船で(狛犬を寄進できるくらいは成功した)廻船業を営んでいたのではないかと想像しています。
但しこれについては何の証拠もありません。